ビリー・ジョエルが観たかったなぁ

ビリー・ジョエルの演奏が観たい!(聴きたいじゃなくってね。) って思っても、以前は簡単じゃぁなかった。

コンサートっていったって、そう簡単に行けるわけもなく、有名なアーティストなら時々フィルムコンサートというのもやっていたが、それとてそんなに頻繁にやっていたわけでもなく。

レコードのジャケットと黒い円盤。それとFMラジオと音楽雑誌・・・それが全てだった。


10代の頃の私にとって、毎週水曜日の午後7時から地元の民放でやってた1時間のロック専門番組で流れるライブ映像を楽しむことだけが、唯一、ビリー・ジョエルの演奏する姿を観る方法だった。


今ではビリー・ジョエルに限らず様々なアーティストのコンサートもDVDをレンタルすれば安く見られるし、画像の画質にさえ拘らなければ、インターネットを使えばYoutubeでその場で動画を楽しむことだって可能だ。

また、個人でビリー・ジョエルの曲をmidiにして、イージーリスニング的に楽しむ事だって出来る。


でも、あまりにも身近になりすぎて、かつて私が10代の頃にアーティストに抱いていたような憧れを、今の10代は持ちにくくなってるんじゃないかなとも思う。

なんと言っても、レコードの紙ジャケットの質感は、今のCDにはない。
あれって、宝物感があったよなぁ。


それから、ビリー・ジョエルやビートルズなどのブートレグ盤(海賊盤)を手に入れたときのドキドキ感も今では味わえないよなぁ。
だって、そんなものお金を出して買わなくても、今では簡単に無料でインターネットでダウンロードできちゃうもんなぁ。


・・・なんてこと考えてたら、今の世の中、だんだん、つまらない世の中になってきたような気がする。
あまりに身の回りにたくさんあり過ぎて、一つ一つに思いを込めにくくなったような・・・。


話がそれてしまったが、ビリー・ジョエルを聴いてて、熱いものが胸に蘇ってくるっていうことは、これって、自分がおっさんになってしもたってことかなぁ。

ビリー・ジョエル成功への道筋

ビリー・ジョエルは、1949年5月9日、ニューヨークのブロンクスに生まれる。
本名をウィリアム・ジョセフ・マーティン・ジョエル(Willam Joseph Martin Joel)という。

両親の影響から3歳からピアノのレッスンを始める。既に、幼い頃からモーツァルトの作品に興味を示していたという。

ビリー・ジョエルのロックへの目覚めは、エルヴィス・プレスリーからだった。
エルヴィスのプロデューサーとして、また、後にビートルズのレット・イット・ビーのプロデューサーとして物議を醸したフィル・スペクターのサウンドに大いに刺激を受けたという。

彼、ビリー・ジョエルも多くのアメリカのシンガーのご多分に漏れず、エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ、ジェイムズ・ブラウン、オーティス・レディング、ノネッツ、サム&ディヴの面々に傾倒していた。

しかし、ビリー・ジョエルがロックシンガーとして生きる決意をしたのは、皮肉なことにイギリス出身のビートルズの登場が決定的だったという。

ビリー・ジョエルの成功までの道筋は、しかし、決して平坦なものではなかった。

ビリー・ジョエルは、ロングアイランドのクラブでピアニストとして生計を立てながら、ロックグループを結成し、1968年に念願のデビュー。
しかし、1969年、セカンドアルバム発表の後に、バンドは解散。
その後、バンドメンバーの一人とデュエットを結成した。

ビリー・ジョエルのデュエットととしてのアルバムは、1970年発表のサイケデリック・サウンド調のもので、全く受け入れられず、断念。
ビリー・ジョエルは、ロック評論家に生計を求めた。

この後、ビリー・ジョエルは、ファミリー・プロダクションとの契約を経て、1971年、ようやくアルバム「Cold Spring Harbor」でソロ・デビューを果たす。

ビリー・ジョエルは、ソロデビューアルバムの販売不振とツアーのトラブルに見舞われ、気持ちを切り替えるため、居をカリフォルニアのノース・ハリウッドに移す。

この当時、ビリー・ジョエルは、ビリー・マーティンの芸名でロサンジェルスのカクテル・ラウンジで弾き語りをしたり、人里を離れ山中に引きこもって曲作りに集中したりした。

このような経緯を経て、ビリー・ジョエルは遂にCBSとの契約を交わし、1973年、ビリー・ジョエルの歴史的なヒット曲、ピアノマン(Piano Man)へと繋がるのである。

正に、ピアノマン・ビリー・ジョエルの体験無くして生まれ得なかった楽曲ピアノマンの歌詞には、ビリー・ジョエルのそれまでの体験が凝縮されていたのではなかろうか。

それ以降、ビリー・ジョエルは、名曲の数々を世に送り出してきた。

1975年、ストリートライフ・セレナーデ Streetlife serenade を発表。

ビリー・ジョエルは、ニューヨークへ帰る。

1976年、ニューヨークのスタジオで収録したニューヨーク物語 Turnstiles発表。

1977年、ストレンジャー The Stranger発表。アルバムチャート2位。
このアルバムにも納められたシングル「素顔のままで Just the Way You Are」では、グラミー賞の最優秀歌曲賞を受賞し、全米ヒットチャート3位を記録。

1978年、ニューヨーク52番街 52nd Street発表。アルバムチャート1位に輝く。
それも当然といおうか、このアルバムには「オネスティ Honesty」、「マイライフ My Life」、「ビッグショット Big Shot」といった名曲が散りばめられたいた。
このアルバムで第22回グラミー賞の最優秀アルバム賞を獲得し、ビリー・ジョエル自身も最優秀ポップシンガーに選ばれる。

続く1980年、グラス・ハウス Glass House も1位を獲得するとともに、シングルヒットも連発。ロックンロールは最高さ It's still Rock and Roll to Me で遂にシングル1位を記録。グラミー賞で今度は最優秀ロック男性歌手賞を受賞する。

この時期、ビリー・ジョエルは、日本公演でライブも何度か行い、日本での地位を不動のものにする。

こうしてビリー・ジョエルは、最初の絶頂期迎えたのである。

ストレンジャー

今回は、「ストレンジャー(The Stranger)」です。

実は、私がビリー・ジョエルの曲の中で一番好きな曲が、この「ストレンジャー(The Stranger)」です。
それがナゼ3番目の記事なのか・・・って、大上段に構えるほどの理由は、特にありません。

ちょっと、出し惜しみしたってところかな。
美味しいおかずは、一番最後まで取っておく性質なので。(^_^)


ストレンジャーの収録アルバムは「オネスティー」のひとつ前にリリースされた、ズバリ「ストレンジャー(The Stranger、1977年)」です。
所謂アルバムタイトルカバー曲ですね。

当時、まだ、頬にニキビが残っていた私は、聴くならピンクフロイドやキングクリムゾン、あるいはゼップ(レッドツェッペリン)などのブリティッシュロックばかり。
そんな私に、アメリカも良いかもと思わせたのが、ビリー・ジョエルのストレンジャーでした。


さすがにビリー・ジョエルの来日コンサートまでは行きませんでしたが、結構、ハマりましたね。
学園祭でバンド仲間とやるかやらないかでもめたことを思い出します。だって、他のメンバーは、バリバリのブリティッシュ派なので・・・そもそもムリ。^_^;

私一人、ビリー・ジョエルの楽譜を買って、バンドのメンバー以外で誰か一緒にやってくれる奴はいないかと探したことなども今では良い思い出ですね。
そもそもビリー・ジョエルの曲を歌えるボーカルがいなかったので、他のバンドのメンバーのボーカルに声を掛けました。
彼は当時流行ってた世良公則を上手く歌っていたので、まぁ、毛色は違うけど上手いから良いやって乗りで声を掛けたのですが、見事に断られましたっけ。

それから、英語のLL授業の前に、視聴覚教室で先生が来る前に勝手に曲を掛けて怒られたのも、このストレンジャーでしたね。


そもそもこのストレンジャーも他のビリー・ジョエルの日本で流行った曲(オネスティーとかと)同様、本国アメリカでは、それほどのヒット曲ではなかったそうです。
さすがに日本では大ヒットだったので、ベストアルバムが出ると、その日本版には必ず入れられる曲(ってことは、アメリカ版には入ってない曲)です。

なぜか、ビリー・ジョエルの曲って、日本とアメリカでは流行る曲が真っ二つに割れるようですね。

素顔のままで

「オネスティー」の次は「素顔のままで」か!・・・と、ビリー・ジョエルを愛するファンの方からありきたりだとお叱りを受けそうですが、良いのです。^_^;

オネスティーにしても、素顔のままでにしても、ビリー・ジョエルのコンサートにいっても必ず演奏する曲ですし、ベストアルバムにも必ずエントリーされてます。


私がビリー・ジョエルを始めて聴いたのは私が高校生の頃ですが、この「素顔のままで」のバックで使われているシンセサイザーの処理が、その頃好きだった「10cc」の曲での使われ方とそっくりで、だから大好きな曲でもあります。
曲調もヨーロッパの哀愁とニューヨークのドライさのコントラストが面白く、良く聞き比べていたものです。

「素顔のままで」は、ビリー・ジョエルの初めての本格的な大ヒット作でもあり、今でも静かにチェアーに腰掛け(イスじゃないです。チェアーです。[こだわり、こだわり。])、片手にブランデーを傾けながら聴くと、なぜか夜明け直前の都会のビルの谷間の都市高速を車で静かに走り抜けていく情景が思い浮かびます。

ビリー・ジョエルの曲には、都会が合いますね。それも夜。なぜかハイウェー。


ところで、この「素顔のままで」は、一般にはビリー・ジョエルの代表的バラードとして受け止められてますが、私はちょっと違う聴き方をします。

都会の生活に疲れ、人との出会いに恐れを感じている人々。
あるいは、ありのままの自分でいることが出来なくなってしまった都会人。

都会には、そんな、背伸びした人間関係に疲れた人々がたくさんいるように思います。
まぁ、自分のことなんですけどね。(^_^;)

そんな人々(私)に送られたメッセージソング。
今風に言うならば、癒しの曲とでも言いましょうか。

だから、ビリー・ジョエルは手放せないんですよね。この曲「素顔のままで」も。

もし、若い人でまだ聴いたことがない人がいたら一度聴いてみてもいいかもよ。
今ならレコード屋(違った!CDショップだ!)で試聴させてもらえるところもあるかもしれないし。(ないかな〜。^_^;)

素顔のままでの歌詞も載せられないのが残念だぁ〜。○ΓZ

オネスティー(honesty)

ビリー・ジョエルといえば、オネスティー(honesty)が代表曲としてすぐに思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。

ビリー・ジョエルの5枚目のアルバム「ニューヨーク52番外(79年発売)」に納められたこの曲「オネスティー(honesty)」は、ビリー・ジョエルの代表曲の一つとして紹介されますが、しかし、実はアメリカ本国ではトップ20に入っていませんでした。

それでも、ビリー・ジョエルのバラードの代表曲であることには、変わりがないでしょう。
いままでもそうであったように、これからも「素顔のままで」とともに代表的なバラードとして、愛され続けるのではないでしょうか。

実は私は、ここで「オネスティ(honesty)」の歌詞と対比しながら、ビリー・ジョエルのことを語りたいという思いはあるのだが、おそらくそれをしたら著作権に引っかかると思うので、それは差し控えなければならないだろう。

残念である。
なので、少しわかりにくいかもしれないが、そこはどうかご了承願いたい。


ビリー・ジョエルが「オネスティー(honesty)」に込めた思いは、いったいどんなものだったのだろうか。
最近、改めてこの曲を聴き直してみて、そんな考えがよぎった。

初めてビリー・ジョエルがこの曲「ホネスティー(honesty)」を歌っているのを聴いた十代頃の多感な感受性は失われたかもしれないが、今の私には、当時の私には持ち得なかった人生における年輪という重石を背負っている。

その重石が、ビリー・ジョエルの、当時と変わらない、まだ、若々しい歌声に共鳴するのである。

それが私には驚きである。

当時のビリー・ジョエルは、当然ながら、今の私よりはるかに若い。
そのビリー・ジョエルの体からのほとばしる歌声に込められたその思いは、いったいどこから来ているのであろうか。

単に才能という言葉だけでは、説明できないものが、そこにはあるように思えてならない。

私が歩いてきた道は平坦ではなかったけれど、その道は一人ではなかった。
私には、ともに支え、励ましてくれる家族がいつもすぐそばにいた。
もちろん、辛い日ばかりではなかった。楽しいだってあった。
けれど、それでも生きることを投げ出したくなるような、そんな日々の連続だった。

それらの思いが、今、こうしてビリー・ジョエルと再会し、改めて聴いてみると、信じられない程、私の心を揺さぶるのである。
うまく言葉に出来ないのがもどかしいが、これが感じるということなのだろうか。

私にとって、ビリー・ジョエルの「ホネスティー(honesty)」とは、今だからこそ聴く意味のある曲なのかもしれない。
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